■
久々の更新となりました。。
今後は、蓄積してきた実績・ノウハウなども含め、
できるだけこまめに書いていきたいと思っています。。
再開の最初の記事として、
ちょうど卒業シーズンということで、
卒業生に向けたメッセージを書いてみようかと思います。
この時期は、確かにおめでたいことなんですが、
個人的には正直、寂しい気持ちの方が大きいです…。
でも、“門出”ですし、新たな出会いもあるので、前向きに…!
「花 〜卒業する君たちへ〜」
小学校を卒業する皆さん、中学校を卒業する皆さん、
小学校、そして中学校では、いろんなことがあったと思う。
楽しいこと、辛いこと、悔しいこと、嬉しいこと、
その全てが君たちの糧となり、今、小学校卒業・中学校卒業という“花”を咲かせた。
一人ひとり違う、まさに“世界にひとつだけの花”。
この花は、やがて枯れる。次の新しい花を咲かすために。
しかし、君たちが生み出したのは、“花”だけではない。
“実(果実)”をつけ、“種”をつくった。
“実(果実)”は、まさに君たちが身につけた知識、教養、技術、知恵、その他礼儀礼節など。
“実(果実)”は、ただ持っていても、腐るだけ。
だから、あなたたちが身につけた“実(果実)”は、
周りの人たちにどんどん分け与えて欲しい。
ちょうど、植物が、動物たちにその果実(野菜や果物)を食べてもらうように。
例えば、バレー技術を、次に所属するチームのために使う…という形で。
知識や教養、礼節などを、次に続く子ども達に教えてあげる…という形で。
するときっと、君たちは、「笑顔」や「ありがとう」という言葉をもらうでしょう。
この「笑顔」や「ありがとう」という言葉をもらうたびに、きっと貴方は幸せな気持ちになり、
もっと頑張るためのエネルギーをもらうことになる。
そして“種”。
今度は「新中学生」「新高校生」という名の、より大きな花を咲かせるために、
この種を植え、育てていくことになる。
小学生時代・中学生時代には、「葉」「茎」なども身につけてきた。
そうして身につけてきた全てのものが、やがて次に咲かす花のための“肥やし”になる。
さらに、今後も新たにいろんな人から、水をもらい、太陽をもらい、土をもらい、肥料をもらい、
そうして自分だけの花を咲かせていく。
自分だけの花だけど、自分だけで咲かせることはできない。
逆に、いろんな人の協力を得ること、お世話になることが大事。甘えるべきときは甘える。
何でもかんでも、独りだけ、自分だけで頑張ろうとしない。
そして、自分だけの、世界にひとつだけの花を、今までより立派な花を
大きな大きな花を、咲かせて欲しい!
卒業おめでとう! そして、今後の活躍を期待しています!
「敵」に「素」をつけると「素敵」になる。
高塚猛著「人生を立て直す36のヒント」よりの言葉です。
著者によると、「素」とは
●「素晴らしい!」と相手を褒め称えること
●「素直になる、素顔で接する」こと
今日の競争社会においては、取引先も同僚も、ある意味「敵」である。
そしてそんな相手が、たとえ自分のことを批判していたとしても、
そこで自ら人間関係をシャットダウンするのではなく、
そんな「敵」にでも、まず一度は「素」をつけてみる。
…といった内容でした。
僕も、こんなとき、あります。
一般的に、新しいことをやろうとしたり、現状を変えたりしようとすると、
必ず「抵抗勢力」が出てきます。
そんなとき、つい、感情的になってしまいそうなときが多々あります。
「真意とか、事実とか、何も知らないくせに、勝手なこと言いやがって」
「自分は何もしていないくせに、口だけの評論家気取りか」
と。。
実際、現実問題として、行動できない人間ほど、そして蚊帳の外にいる人間ほど、
勝手なことを言うのは事実としてあります。
しかし…そこで感情的になってはいけないんでしょうね。。
僕はまだまだ小さい人間だな、と、そんなことがある度に思い知らされます。
最近、橋下徹氏をテレビ等で見ていても、その精神力の強さ、ディベート力の強さに、
ただただ驚かされます。
もちろん、それでお金(給料)をもらっている、ということも1つにはあるでしょうが、
そんなことを超越した、「信念」「自信(確信)」みたいなものを、ヒシヒシと感じます。
そもそも、世の中の人全員が、味方になることなど、あり得ません。
こちらが「素」をつけようとしても、「素」がつかない「敵」もたくさんいると思います。
そんな人にこだわる必要はないでしょう。そんな人と付き合っても、そんな人に過剰に時間や労力を割くのはムダです。
でも、まず一度は、どんな相手でも、「素」をつけてみる。
あとは、どこまで、「素敵」になるまで、こちらががんばるか。。
相手が子供・教え子なら、そもそも「敵」ということではありませんので、このような考え方は当てはまりませんが、
接する心構えとしては、同様に、とことん「素」をつけ続けるべきだと言えるでしょうか。
相手が大人なら、どんな人間なのか、どんなケースなのか、によって変わるとは思いますが、
少なくともこちらから早々と関係を断ち切ることのないよう、心掛けることが必要なんだろうな、と。。
そんな心掛けが、人間関係を豊かなものにし、自分自身の器を大きくするんだろうな、と思いました。
私が先生になったとき
ちょっと前なんですが、
ネットでたまたま見つけた詩に感銘を受けたので、書き留めておきたいと思います。
教育界ではよく知られた詩です。
『私が先生になったとき』
私が先生になったとき
自分が真理から目をそむけて
本当のことが語れるか
私が先生になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるか
私が先生になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにどうして夢が語れるか
私が先生になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸をはれと言えるか
私が先生になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるか
私が先生になったとき
自分の闘いから目をそむけて
どうして子どもたちに勇気を持てと言えるか
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
…ここまでです。
いやあ。。身が引き締まる詩です。。
僕はまだまだ未熟者だなぁと痛感させられます。
これ、ちょっとアレンジしてみました。
当てはまる方、どうですか???
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
<親御さん向け>
『私が親になったとき』
私が親になったとき
自分が真理から目をそむけて
本当のことが語れるか
私が親になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるか
私が親になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにどうして夢が語れるか
私が親になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸をはれと言えるか
私が親になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるか
私が親になったとき
自分の闘いから目をそむけて
どうして子どもたちに勇気を持てと言えるか
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
<(スポーツ)指導者向け>
『私が指導者になったとき』
私が指導者になったとき
自分が真理から目をそむけて
本当のことが語れるか
私が指導者になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるか
私が指導者になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにどうして夢が語れるか
私が指導者になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸をはれと言えるか
私が指導者になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるか
私が指導者になったとき
自分の闘いから目をそむけて
どうして子どもたちに勇気を持てと言えるか
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
人に負けてもいい
指導する立場にいると、「言葉」の力の大きさを感じることがよくあります。
良くも悪くも、人に大きな影響を与える力を持っているのが「言葉」でしょう。
世の中にある素晴らしい言葉に、たくさん触れていきたいと思います。
そして子供たちにも伝えていければいいな、と思います。
僕自身が忘れないため、ということもあって、
感銘を受けた言葉を書きとめていきたいと思います。
今回はその1つ目。
北京オリンピック金メダリスト、上野由岐子選手が心の支えにしていたことで有名な言葉です。
先日から書いている「勝ち負け」についての考察につながる内容です。
一言で言うと「克己」。まさにこれ!って感じですね。
『挑戦』
人に負けてもいい
しかし
やるべきことをやらない自分の心の弱さには
絶対負けたくない
勝ち負け<4>
つい先日、「勝ち負け」に関して、また違った気づきを得るような出来事があったので
書いてみたいと思います。
実は昨年末、ある地域の大会で、僕が監督を務める小学生バレーチームが優勝を果たしました。
子供たちの頑張りが、僕はとても嬉しかったのです。
そのときの、とあるチーム関係者の言動です。
普段、「勝ちたい」という意識が強い人なんですが、いざ優勝してみると、
「自チームのホームページで、優勝したことは書かないようにしよう」という意向を出してきました。
それ自体、僕は良い悪いというつもりはありません。(ちょっと自意識過剰かな、とは思いましたが。。)
その人のこと、この言動のことは、どうこう言うつもりはありません。
それを受けて僕が感じたのは、「これが、いわゆる日本的な美徳ってやつなのかな〜」ということです。
勝ったことをホームページなどに書いたりすると、他チームの方が、あまり良い気がしない、とか、
(これはちょっと意味が分からなかったですが)自チームの子供たちにプレッシャーがかかるとか。。
僕は正直そう思わないのですが、でももしかすると、そう思う方も多いのかも知れないな、と思いました。
「控えめな」「日本人的な」、というところでしょうか。
で、そんなとき、ふと、過去のある経験の記憶が蘇ったのです。
「過去に、同じような感覚を覚えたことがあるな」というものです。
僕はこうしたスポーツ指導に携わる前に、ビジネス系のNPO活動をしていたのですが、
そのときの経験です。
それは何かというと…。当時ずっと葛藤してきたことですが、
「お金儲けは、悪いことなのか」ということです。
日本では、未だに「お金儲けは、何か、良くないこと」みたいなイメージがあると思うんです。
何か、卑しいというか、「お金の亡者」的なイメージです。
日本では、もしお金をたくさん稼いで、それを人に言ったりすると、どう思われるでしょうか?
もちろん全てではないにしろ、あまり良い印象を受けない人も多いでしょう。
一方で、例えばアメリカなどでは、たくさんお金を稼いだ人は、高く評価されます。
少々強引な稼ぎ方をしても、「結果」を評価されます。
そして、強引な稼ぎ方をした人も、その稼いだお金を社会に還元する(寄付する)という文化が根付いていたりします。
だから余計に評価されるんでしょう。
僕は「ビジネス系」の「NPO」という、微妙な立場で活動していたことで、
いろいろな立場の人たちの、いろいろな違った意見・考え方に触れる経験をしました。
そうして、いろいろな意見に触れ、いろいろな人と話をする中で、1つの結論に達しました。
「金儲け自体が、良いとか悪いとか、そういうことではない」ということです。
「金儲けは、手段である」ということです。「目的」ではなく、「手段」です。
「目的」は、いわゆる「企業理念」というやつです。
その理念、想いを目指すためには、組織を継続させないといけません。
さらに高い理想であればあるほど、多くの人の協力が必要です。
そのためには、多くの人の生活の裏づけが必要です。平たく言うと「生活費の確保」つまりお金です。
たくさん稼いで、たくさんの人々の雇用を確保し、理想追及のための資金を確保するために、「稼ぐ」のです。
現実問題として、大きく稼いだ人ほど、社会に対して大きな貢献をする「力」を得ます。
逆にどんな理想論を掲げ、キレイな言葉を並べたとしても、お金がなくて、大した社会貢献ができない、
という人も少なくありません。(恥ずかしながら、僕もそんな人間だった気がします。)
ただ、このとき、「目的」を見失う(見誤る)と、間違った方向へ進む可能性が出てきます。
「稼ぐ」ことが目的になってしまうと、そこの固執してしまうと、時として「稼ぐ手段」を誤ってしまうこともあります
。
「稼ぐ」ことが、「悪いこと」ではないのです。むしろ、ゼッタイ必要なんです。
会社としても、個人としても、お金を稼ぐことは、ゼッタイ必要です。
そして、しっかり稼いだその先に、明確な「目的(理念)」がないといけないんだろうと思うんです。
…これって、スポーツにおける「勝つこと」と似ていませんか?
僕の中では、これらがピタッと重なったんです。
「勝つこと」「勝ちにこだわること」は、悪いことではないんです。必要なことなんです。
勝つことに真剣にこだわり、勝ったことに自身と誇りを持って、堂々とする。
さらに前述のアメリカ的に言うと、そうした力を持つようになったら、それを卑下したりするのではなく、
むしろ全面に出して、チーム外にも感謝の気持ちを持って、外に向かってどんどん還元していけばいい。
「勝つ」という結果は、チーム外のいろんな人や他チームの皆さんのお陰だからです。
感謝の気持ちを堂々と表明し、その恩返しをしていけばいいんです。
ただ、「勝つこと」が目的になってしまったらいけない。
その先にはもっと大事な、明確な「目的」がなければならない。
選手の目的は、「選手として、人としての成長」であるべきであり、
指導者(教育者)の目的は、「広く、そうした子供、人材を育て、輩出することに寄与する」
ということだと、僕は思います。
勝ち負け<3>
ご無沙汰しています。
久々の投稿になってしまいました。。
以前書いた「勝ち負け」について、また最近思うことがあるので、書いてみたいと思います。
以前書いたときには、
「目的と目標」という切り口で考えてみました。
「目標」が、「勝つこと」
「目的」は、その先にあるもの。「自身の上達・成長」
といった書き方をしました。
最近思うのは、
「目的と手段」という切り口です。
「勝つこと」は、目的ではない、というのは前と同じです。
そして目的は「自身の上達・成長」である、ということも同じです。
「選手としての成長、人間としての成長」というのが、やっぱり一番大事で、
スポーツする上での一番の目的であると思うんです。
そして、「勝つこと」というのは、そのための「手段」である、という考え方です。
「勝つこと」が「手段」? …というと、変な印象を受ける方も多いと思います。
僕が考えるのは、「自身の上達・成長」のために、「勝つこと(勝ち負け)」が1つの大事な指標となる、
ということです。
勝ち負け自体が目的なのではなく、それを通じて、それを利用して(手段として)、自らを高める。
勝ちを目指すことが、自己成長につながる。勝つことで学び、負けることで学ぶ。
だから、勝ち負けにこだわることが「良い」「悪い」という議論ではないのです。
「手段である」ということをきっちり認識した上で、「本来の目的(=自己成長)」を見失うことなく、
しかし真剣にその「手段」にしっかりこだわって実行する。
…ということが大事なのかな、というのが最近の僕の想いです。
家庭教師<2>
家庭教師について、いろいろ想いがあるが、
今回はその1つを書いてみたい。
僕はこれまで、仕事も含めて、「人にものを教える」ということを経験したり、そういう現場をいろいろな形で見てきた
。
仕事で言えば、いわゆる「コンサルタント」と呼ばれる仕事。
自分自身でも、経営面、マネジメント面のお手伝いやご提案をさせて頂いたり、
企業研修のインストラクターのようなことをやらせて頂いたりしたこともある。
また、凄腕のコンサルタントの方の仕事の仕方を、傍で見させて頂いた時期もあった。
そしてスポーツ指導。いろんな優れた指導者の方々の指導を見させて頂いたり、
その方々の、指導に対する想いなどをお聞きしたりしてきた。
学校教育、学習塾などで教育に携わる方々に関しては、主に書籍やWEBで
著名な教育者の方々の、いろいろな教育理念に触れてきた。
いわゆる「一流」と呼ばれるコンサルタント、指導者、教育者に、
いろんな形で触れてきて、いくつか共通点があることに気がついた。
その1つが、「先を見ている」ということ。
逆に言うと、それなりの結果・成果を出している「コンサルタント、指導者、教育者」の人たちでさえ、
「その場・その時」しか見ていない人が少なくなかったりする。
自分が教えているとき、その瞬間とか、その期間とか、その場とか。
そこしか見えていない。
すごくよい指導をされているケースもある。そして、すごく感謝されていたりもする。
でも、そうしたコンサルタント・指導者・教育者が、いなくなった瞬間に、
元に戻ってしまう、というケース。
そして、「やっぱり○○先生がいないとダメですね」とか言われて、自分でも
「やっぱり俺がいないとダメだ」という人。
それはそれで、ある意味素晴らしいコンサルタント・指導者・教育者なんだろうと思う。
実際、結果を出し、感謝されるだけでも、凄いことである。
その下には、結果を出さず、感謝されることもない、という人も、たくさんたくさんいるからだ。
しかし、一流の「コンサルタント・指導者・教育者」とは、そういうものではない。
大事なのは、「クライアント・選手・生徒」が、本当の意味で「自立」すること。
「成長させる」ことももちろん大事だが、もっと大事なのは、「自ら成長できるように導く」こと。
「コンサルタント・指導者・教育者」として考えたいのは、
○(企業)自分がいなくても、従業員の士気が高く仕事に取り組み、企業成績がちゃんと上がる。
○(スポーツ)自分がいなくても、真剣に練習に取り組める
○(学問)自分がいなくても、自主的に勉強できる
ということである。
実際、どのカテゴリーの人でも、一流と呼ばれる人たちは、必ず、
「自分の手が放れても、クライアント・選手・生徒が、自ら成長できるように導く」
ということを常に言っている。
例外なく、口を揃えて、こういうことを言っている。
現実として、指導する立場に立つと、
「やっぱり○○先生がいないとダメですね」とか言われると、
正直、気持ち良い。
自分が努力して、クライアント・選手・生徒に尽くしてきたことが感謝されるのは凄く嬉しい。
そしてちゃんと評価してもらえることも、すごく嬉しい。
でも、…それだけじゃダメなんだろうな、と思う。
本当の意味で、「クライアント・選手・生徒のことを想う」というのは、
一言で言うと…
「自立」
まさに、この一言に尽きるんだろうと思う。
「自立へと導くことができる」
…僕は、そんな指導者になりたい。そんな教育者になりたい。