こんにちは。松尾です。
今回は、「『教える』って何?」ということについて考えてみました。
世の中には、「教える」立場にいる人がたくさんいます。
学校の先生、塾の先生、スポーツ指導者、その他習い事の先生、などなど。
あと、大人(ビジネス)の世界でも、コンサルタント、マネジャー、教育担当者など、
いろんな形の「教える」「教わる」が存在します。
「教える」ということは、ゼッタイに必要なことで、大切なことだと思います。
しかし一方で、「教える」という言葉(響き)には、ある種とても偉そうな印象を
受ける人も少なからずいると思います。
かく言う僕自身も、時としてそう感じることがあります。
「教える」ことは、偉そうなことなんでしょうか。おこがましいことなんでしょうか??
現実問題として、確かに「ただ偉そうで、中身がない“教える”」をしている人が
少なからず存在します。
しかし一方で、本当に尊敬に値する、周囲が認める「立派な“教える”」をしている人も
いるのも事実でしょう。
そういう意味で、「教える」ということについて2つの切り口で考えてみました。
○真の意味で「教える」ができるようになるためには?
○「教える(伝える)」ことの必要性について
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○真の意味で「教える」ができるようになるためには?
「教える」ことができるためには、当然ながら自分自身が「理解」していないとできません。
モノによっても違うかも知れませんが、例えばスポーツであれば、
仮に自分ができないことでも、少なくとも「理解」していないと教えられません。
そこで、昨今注目されている教育スタイルが思い浮かびます。
それは…「教え合う」ことです。
人に教えようとすると、ちゃんと「理解」してないとできませんから、
教える側の人は、まず事前に、必死で「理解」しようとします。
また実際に「教える」最中、及びその後において、
相手に教えたばかりか、自分自身の「理解」がより深まる、という現象も起こります。
そういう“効果”を考えると、「教える」ことは、決して“偉そう”“おこがましい”
などといって「避けるべき(遠慮すべき)もの」ではなく、
むしろ積極的に行うべき行動である、といえるのではないでしょうか。
○「教える(伝える)」ことの必要性について
これは以前書いた「循環型教育(指導)体制」にもつながるのですが、
「教える」ことは、過去に自分が「教わった」ことに対する『恩返し』である、
ということが言えるような気がします。
「教える」という言葉の響きが、僕個人的にはどうも偉そうに聞こえてしまうのですが、
「伝える」と言い換えれば、これはゼッタイやるべきことだな、と思えます。
みんな、過去にいろんなことを、いろんな人から教わってきたことと思います。
僕ももちろんそうです。
そういう「教わったこと」は、まず自分で生かすことが大切です。
そして次に大切なのは、それを次の世代に「伝える」「引き継ぐ」ことも
同じくらい大切なことだと思います。
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そうして考えていくと、僕自身、「教える」ということ(言葉の響き)に対して、
変な先入観というか、変なイメージを持ちすぎているのかな、と最近感じます。
本当は、前述の2つ「自身の理解を深めるため」「伝える(恩返し)」ということこそが、
「教える」という言葉の本来の(真の)意味なのではないかな、と思うのです。
そうであれば、「教える」ことは、決して「偉そう」「おこがましい」ことではなく、
むしろ積極的に実行すべきものなのではないか、と思います。
僕は、この「教える」という行動を人に頼む機会が多くあります。
僕自身が間に入って、「教える側」「教わる側」をつなぐ作業です。
快く引き受けてくれる人、自分にメリット(金銭的、ビジネス的など)がないとやらない人、
などいろんな人がいます(もちろんそれが良い悪いということではありません)。
そんな中、「僕(私)なんか、とんでもない」「いや〜、ムリですよ」という人も
少なくありません。
傍から見ると、全然そんなことないのに、遠慮したり、それこそ「おこがましい」と思ったり
する人が多いようです。
そういう人には、ぜひ「積極的にやって欲しい、チャレンジして欲しい」と思うのです。
「教える」ことを楽しんだり、「教える」ことに使命感・やりがいを持ったり…
そういう人がたくさん増えてくれば、とてもよい循環が生まれるのではないかな、と
思っています。
そういう『「教える」「教わる」の循環 』を、いろんな分野で、僕はどんどん作っていきます!